『黄泥街』(白水社) - 著者: 残雪 - 長瀬 海による書評

1 日前 3
黄泥街
『黄泥街』(白水社)著者:残雪

わからない世界を生きること

彼女は文字どおり「わからない」ことを書いているのであり、「わからない」からこそ書いている。文学というものが、究極的には、世界が「わかる」ことの中にではなく、それが果てたところに始まるのだとすれば(中略)、残雪が書きはじめたのは、その地点からである。
これは中国を代表する不条理文学の書き手、残雪の『黄泥街』(白水Uブックス)の巻末に付された、訳者による論考「わからないこと」からの抜粋です。わからない世界をわかりやすく表現することは、時に事態を単純化させます。複雑なことを複雑なまま描くという誠実さ。それを持ち合わせた残雪は、この世界の真相と真正面から対峙し続けている作家です。

だから、僕たちは残雪の作品を読むと不安に駆られます。わからない。物語の世界で起きていることが。その、理(ことわり)が。それは僕たちに、剥き出しのままの現実を見させるのです。
舞台となるのは〈黄泥街〉という架空の土地。薄汚く、猥雑で、小さな家がひしめく一本の通りにすぎない、そんな〈黄泥街〉を〈わたし〉が探している場面から物語は始まります。

しかし、〈乞食〉が見る夢が語られると、〈わたし〉は消え、その内側に語りは迷い込む。そこはあらゆるものが腐敗し、悪臭に覆い尽くされた街。住民たちは〈糞を垂れながら足踏み鳴らして罵り、罵りながらズボンをひっぱりあげる〉。会話は支離滅裂で、他者を理解する回路は閉ざされている。

あらゆる整合性がはぎ取られた物語の空間で、二つの不確かなものを人々は探し求めています。それは、〈王四麻〉という男、そして彼が夢を見ながら叫んだとされる〈王子光〉という謎の存在。

通常、言葉は意味と記号を一対一で結びつけます。でも、ここではその等式が成立せず、意味はひたすらズレていく。〈王四麻〉が意味する人物に辿り着いたと思ったら、突然、その名詞は別の対象を指し示す。〈王子光〉に至っては、結局、意味を持たず、指示対象となるものが現れることはない。

意味の奪われた言葉に翻弄される人々。非実在の存在が跋扈する世界は空虚さと緊張感を漲らせる。その先で醸成されるのは、終末的な感覚です。作中では〈世界最後の日〉というフレーズが繰り返され、旱魃と豪雨に見舞われるなか、生きることへの諦念が叫ばれる。〈今、何がつまらないって、この世に生きているほどつまらないことはない〉。身も蓋もないそんな悲嘆の背後にあるのは何か。

例えば、僕はここに共産主義的な抑圧を読み取ってみたい。作中では、〈上部からの通達〉や〈委員会〉という言葉が人々を怯えさせますが、それらが意味するものは〈だれにもわからなかった〉という。人々の生を抑圧するものの正体は明かされぬまま、ただ彼らが狼狽える姿だけが描かれるのです。そうした内実の無い言葉が世界を不穏に彩る一方、意味の過剰な単語も散見される。例えば、〈自己批判〉あるいは〈自己改造〉。これらは中国が経験した文化大革命で使われた言葉で、共産主義的なイデオロギーに塗れたものです。この世界をつぶさに観察すれば、その後ろに、そうした思想の抑圧が潜んでいるのがわかるはず。

あるいは、やたらと使われる〈サルファ剤〉という単語。抗菌作用のあるその薬剤をナチスが人体実験のために用いた過去を思い出すなら、この言葉は不気味な響きを持つものとして映る。さらに、人々が〈黄泥街に迫害事件はないか?〉と大合唱をすると、かつて世界にあったジェノサイドの記憶が蘇る。政治的な抑圧と閉塞感。それがこの世界の苦しみなのではないでしょうか。
とはいえ、そんな邪推は世界を単純化するだけなのかもしれない。あなたはこの複雑さをどう受け止めますか?
【初出メディア】
英語教育 2023年12月号

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