『雪を待つ』(勉誠出版) - 著者: ラシャムジャ - 長瀬 海による書評

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雪を待つ
『雪を待つ』(勉誠出版)著者:ラシャムジャ

近代化の波がチベットにもたらしたもの

この物語はチベットの奥地にあるマルナン村に、雪が降ったある朝の情景から始まります。語り手の〈ぼく〉は、雪の上に足跡をつけて歩く。すると、村長を務める父親が言った。〈お前、いつ字を書けるようになったんだい?〉どうやら足跡がチベット文字に見えるらしい。でも、〈ぼく〉は文字を知らない。まだ、そのときは――。

1980年代。文化大革命が終わったばかりのチベットは、新しい時代の幕を開けようとしていました。文革で破壊された僧院が復興され、中国政府によって教育の普及が進められると、村にも学校が建設されます。少年時代の純朴さを鮮やかに描写する本作の前半にあって、文字は、チベットの人々に内面的な変化をもたらす近代化の象徴として描かれています。そしてその激変の波のなかで、マルナン村の風景もまた移ろいゆくのです。

〈ぼく〉は、繊細な優しさを持つ少女のセルドン、僧に憧れるニマ・トンドゥプ、洟たれ小僧のタルぺという幼馴染の三人と、そんな変わりつつある村で子ども時代を過ごします。学校には村の外から、新時代を見据える知と眼差しを持った青年教師がやってきた。すると、ここから伝統と革新のせめぎあいが起きていきます。

僧院か、学校か。子どもたちを文明の方に向けて開化させる意欲に満ちた教師は、彼らを外の世界へ誘う。一方、伝統を重んじる旧世代の大人たちは子どもを僧院で修行させたがる。村の地盤が揺れ動くときの振動と、古くからの慣習に縋りつこうとする村人の頑迷さが引き起こす摩擦は、彼らの友情をも引き裂いてしまう。

例えば、親友のニマ・トンドゥプは、学校を離れ、僧侶の道を歩むことになります。村の外の高校に進学した〈ぼく〉とセルドンも大学進学を機に袂を分つことになります。ばらばらになるのは彼らの友情だけではありません。この村でひそかに情を通い合わせていた男女の恋愛もまた引き裂かれるのです。

つまり、この長編小説の前半は、チベットにとって近代化とはいかなる経験だったのかを、切実さを伴う強靭な筆致で、そこに未知なる世界を見る僕らに巧みに教えてくれるわけです。その限りにおいて、ドストエフスキーの作品や、日本でいえば夏目漱石など、古典として読み継がれているさまざまな世界の近代文学に劣らない力を、僕はこの小説に認めたい。それだけの傑作です。
そして、後半。約30年の月日が経ち、大人になった〈ぼく〉が再び彼らの人生と交わる。しかし、その30年という時間は、彼らを後戻りできない場所まで運んでしまいました。資本主義が植え付けた欲望にまみれた聖都ラサ。旧弊な慣習に囚われ続けた結果、ある悲劇を招いたマルナン村。そこに生きる彼女・彼らの息苦しさは、近代化の波に生の拠り所を根こそぎ奪われたチベットの人々が抱える不安の表徴でもあるのです。

この物語は〈ぼく〉が後年、昔を回顧しながら綴った小説という体裁で語られています。その言葉の節々には、どこか寂寥感がにじみ出ている。30年後、セルドンは言います。〈あたしたち大人にならなければどんなに楽しかったでしょうね〉。伝統が壊れた先で、自分の足だけで立つこと。そのよるべなさのなかで新しい言葉を紡ぐ作者の声は、チベットの過去と現在を世界に伝えてくれるのです。

さて、全6回を通じて、現代のアジア文学を読んできました。振り返れば、それらはどれも、全く異なる声で、別様の物語で、近代という時間を省察した小説だったことに気づきます。アジアにとって近代とはなんなのか。その問いは僕らの現在地を見つめ直させ、また、これから進むべき未来を照らすものです。答えは一つひとつのアジアの小説に書かれています。そうした文学作品の内側で時間の酸化に抗う輝きの正体を、僕たちはこれからも考え続けていく必要があるでしょう。
【初出メディア】
英語教育 2024年4月号

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