
『赤い髪の女』(早川書房)著者:オルハン・パムク
「父と子」の物語の終焉
イスタンブルを分断するボスフォラス海峡を挟んで、東側がアジア、西側がヨーロッパ。トルコとは、東と西の混淆と融和の上にある文化の交差点です。訪れてみるとわかりますが、イスタンブルの路地裏には、かぐわしいパンの匂いと、西アジアのスパイシーな料理の香りが立ち込めています。トルコ名物のサバサンドなんて、まさに東西の文化の交渉がなせる技ですよね。さて、そんな東と西の文明が相剋する様子を、オルハン・パムクは変奏を重ねながら描いてきました。長編『赤い髪の女』は「父殺し」という主題を通して、その衝撃音を聞き取った作品です。
〈私は作家になりたかった。〉という一文から始まるこの小説は、のちに建設業を営むことになる一人の男の回想録という体裁をとっています。1980年代の半ば、少年だった〈私〉の前から父親が失踪した。大学進学の準備費用を貯めるために古書店で働く〈私〉は、ある日、井戸掘り職人のマフムト親方と出会う。親方に誘われるままに〈私〉は、イスタンブルから少し離れた街の近くにある高台で井戸掘りの仕事に従事する。親方に師事しながら、依頼主に仕える下働きの少年とともに井戸掘りに明け暮れる〈私〉。父を失ったそんな彼とマフムト親方は、擬似親子のような関係を結んでいくのです。
父の不在を抱える〈私〉は、父の幻像を親方に見る。その眼差しの力強さを象る物語は、次第に父性の正体を探し始める。親方に物語をせがまれた〈私〉が『オイディプス王』の悲劇を語り出すと、「父と子」を巡る小説の主題はより確かな輪郭を帯びる。「父殺し」の古典として知られる『オイディプス王』。近代以降も世界中で参照されたこの戯曲を使い、パムクは何を試みようとするのか――。
井戸掘りの日々の合間に〈私〉は、赤い髪の女性に恋をします。近くの街に滞在する移動劇団の女優でもある彼女は、イランの叙事詩「王書」のなかで息子を殺す勇者ロスタムの妻を演じます。公演後、彼女と同衾することになった〈私〉は、以後、ロスタムの物語に縛られるように生きていくことになる。つまり、この小説は、東西における子殺し/父殺しの代表作を一人の男性の人生のなかに混淆させることで、「父と子」という近代を呪縛してきた強固な物語にケリをつけようとしているのではないでしょうか。
作業の進捗が芳しくない親方の苛立ちと、赤い髪の女性への恋慕によって疲弊してしまう〈私〉の井戸掘りの日々は、ある悲劇によって終止符を打たれることになります。〈私〉はその事件の記憶に蓋をするように生き、大学を出て、地質調査技師になった。だが、東西の「父と子」の物語に取り憑かれたままの〈私〉は、ロスタムの物語の研究調査に夢中になり、起業した建設会社をロスタムの息子にちなんで「ソフラーブ」と名付ける。そして、ある日、オイディプス、ロスタム、ソフラーブに自己を重ね続ける〈私〉の前に、息子を名乗る人物からの手紙が届くのだった――。
父に抗う西欧的な男性。権威を振りかざすアジア的な父親。〈私〉はその相剋の内側で〈確かな自分〉になろうとする。僕は、この小説に「父と子」の物語の権威性を相対化する力を認めます。後半、ある人物が父とは〈子供にとっては世界の入り口であり、中心〉だと言う。父の不在を抱え続けた〈私〉は、その存在の特権性を否定する。あるいは、別の人物が「父と子」の物語では男は英雄になるが、女性には〈涙が残されるだけ〉であることを嘆く。「父と子」の物語の語り直しは、そこにある虚妄を暴いていくわけです。
作中で、東西の子殺し/父殺しの呪縛に取り憑かれた〈私〉を取り込むように、イスタンブルが発展=肥大化していくのも象徴的です。この小説は、トルコにおける「成熟と喪失」をしめやかに謳いあげた、近代殺しの一冊なのです。
【初出メディア】
英語教育 2024年3月号

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